弥生時代の歴史を訪ねて

おはこんばんにちは,先週キャンプに行ってて死にかけていた人です.この時期の夏装備キャンプは寒かった...

さてさて,今回は記事にするのがだいぶ遅くなってしまいましたが,唐子・鍵遺跡へ行ってきました!

唐子・鍵遺跡とは弥生時代初期から後期にかけてあった最も巨大な集落で農耕と物流の規模は近畿屈指であった.その理由としては集落跡から多種多様の農業器具が発掘されており,物量に至っては九州地方からの土器が見つかったこともあり,当時の日本の中枢を担っていたと考えられている.またこの集落は周りの山から昇る太陽の位置を使って歴を読むことをしていたと想定されており,作物の収穫に利用していたことはもちろん,居住区内では大型の建設物跡が2棟以上ある(当時の集落としてはかなり珍しい)ことから祭事も盛んにおこなわれていたことがわかる.自分としては大型の建造物が複数あることよりもその建物に使われていた柱が直径83㎝もあるということに驚きを感じている.

村自体は居住個の外側に環濠(堀に水を流したもの)を作って農作物に水を引いたり,外敵から村を守っていたそう.

さて,ここで疑問になってくるのは弥生時代といえば邪馬台国の卑弥呼じゃないの?というところですが,卑弥呼は当時勢力争いをしていた豪族たちが一人の女王をたてて国を治めていこうという意図の元,出てきた人物であり,生まれはどこなのか正確にわかっていません.成り立ちをさかのぼると九州地方の豪族,イト国が中国の国とつながっており,初期の倭国の中枢でありました.最初の数十年はイト国の王が倭国の王を務めてあの有名な金印もどうやらその時に中国に渡ったようですね.

そのあと,イト国以外の勢力が力を増してきたのと同時に中国の方でも王朝が衰退,日本国内(おそらく西日本)が混乱していきました.この時から中枢であったイト国が衰退していきます.しばらく国内で政治的に争いがあったあと(戦乱の形跡はなかった)に中国の方で魏呉蜀ができ,その時遼東群の公孫氏政権(魏呉蜀とはまた違う政権)と倭国がつながりを持ったそうです.その公孫氏から倭国をまとめろという強い圧力があり,卑弥呼を担ぎ上げてできたのが邪馬台国というわけです.

ならその邪馬台国は中国に近い九州にあるんじゃないのかと思うはずです.(僕は一瞬そう思いました...)

そこで出てくるのが唐子鍵遺跡!

当時唐子鍵遺跡にいた人たちは弥生時代の終わりとともに集落を近くの纏向遺跡というところに移動しています(なぜかはわかりませんでした...(;^ω^))

そして卑弥呼とこの纏向遺跡との関係ですが,これは三国志の魏志倭人伝を見ていくとわかっていきます.この魏志倭人伝には卑弥呼の政権は3世紀前半の倭国の政治的中枢であるとされており,これと同時期にある最も大きな遺跡は纏向遺跡です.つまり,卑弥呼は纏向遺跡で祭事を行っていたという考えです.さらに魏志倭人伝に出てくる語句の個数を数えてみると,倭女王が3,女王国が5,倭王が5,倭国が3,女王が3,そして出てきてもよさそうなワード,邪馬台国女王は一回も出てこなかったのです!つまり,卑弥呼は邪馬台国という日本の中の一つの国の女王ではなく,日本全体を統括する女王である!といっていると読み取れるのです.そう考えると邪馬台国はどこにあるのかと考えると九州よりかは近畿にあるんじゃないかとなります.

結果,纏向は倭国の首都であり,卑弥呼はそこで日本の女王をしていたという結論が出てきました.めでたしめでたし.




p.s.もう少しだけ詳しい話をすると,卑弥呼が纏向にいたころは近畿,今でいう奈良の場所はヤマト王権が納めており,その中のキビ国という場所がヤマト政権の祭政の要であること,纏向は倭国の首都であり,ヤマト王権の王都でもあることから卑弥呼はヤマト王権のキビ国というところで祭政を行っていたと考えられます.以上のように考えると卑弥呼の古墳が纏向遺跡にあるということにもうなずけますね.


おわりんぬ

NICO'S HOME

不定期更新しているブログです.週一では更新されていると思います. 日記的なの書いたり,ノウハウみたいなのも書いていく予定です.

0コメント

  • 1000 / 1000